──日記的瞬間
平出 隆
1998年5月の半ばから、きっかり一年のあいだ、ベルリンに住むことになった。東京を出発するに先立ち、とりあえずの住所となるベルリン文学コロキウム気付で、私は私に宛てて、欲張っていろいろな本を送ったものである。その中に、ちくま文庫版「森鷗外全集」のうち、『独逸日記 小倉日記』の巻を混ぜた。もちろん「独逸日記」が目当てであって、ベルリンでの鷗外の足跡を辿るような遊歩に、ぜひとも必要と思ったからである。
実際には私の動きは、1900年前後のベンヤミンの幼年時代の足跡を辿ることで精一杯となった。また、その1920年代には、二人が相会うことはなかったが、フランツ・カフカが最後の力をふり絞ってプラハを捨て、ベルリンへやってくるということがあり、その無謀ともいえる決断はかねてから私の関心のひとつだった。カフカの移住は、1923年の秋から翌春にかけての半年のことである。西地区のはずれで住み替えた三つ目の家が、私の住まうことになった集合住宅から歩いてすぐのところにあり、しかし、見つけたのはまさに解体工事に遭おうとするところだった。
ともあれ、私の足はなかなか、鷗外の跡を辿るものにならなかった。ときどき思い出しては部屋で、「独逸日記」を手にとるにはとったが、地図帳をひらいてミッテ地区のゆかりの街路名を確かめるというほどの仕草をするにすぎなかった。
ところが私は門司の生れ、中学高校は小倉だから、この「独逸日記」を手にとるたびに「小倉日記」にも目が行く。ベルリン旧市街へ踏み込もうとして、小倉京町に紛れていくことにもなった。異郷で、ときにこうして、故郷の100年前の様子を読むのだった。
明治33年は1900年である。10月22日、鷗外は門司の人から、狆(ちん)を買い受けた。「長き毛の黒き処は甚だ黒く、白き処は甚だ白し。初の名をば小六と云ひしよし聞けど、ころと呼へば即ち来る。更めて葫蘆と名づく。」
26日の項では「胡盧失踪す」となるが、名から草かんむりが飛んでいるのも気になる。二日後、「夕に船頭町を漫歩し、小料理店の前に胡盧を繫げるを認め得て、牽き帰る」とある。
このあとは翌年2月15日に、「胡盧病む」と出るだけだ。次は7月29日に「胡盧を魚住某に贈る」とあるのを最後に、公私多事多端の日記からあっけなく消えてしまう。
胡盧はどうしたか、と辿る術がない。小さな明滅が終って、時間の無辺の淵がひろがるばかり。─これが日記であろう。
詩歌の方では俳句が、時の仕切りに際して無辺の相をとらえることが多い。新年に例をとれば、鬼貫に、「流れての底さへ匂ふ年の夜ぞ」があり、虚子に、「去年今年一時か半か一つ打つ」がある。
瞬間の芸術は、過去に取り巻かれる。「いま」とはむしろ、見失われ、過去の事象を吸い寄せるブラックホールである。時間は過去から未来へと直線的に流れるのではなくて、流れの底や時計の一打音として、いわば凝(こご)ってあらわれる。
私が思わず、「日は階段なり」というとき、階段というものの、前後に果てもないかのように同じリズムでつづく規則性をいうと同時に、へたをすると段鼻にあしうらを滑らせたり、蹴込に爪先を突っ込んだりしかねない、その絶え間ない現在をもいう。いや、いおうとしているらしい。
意識して私が虚子の、「貫く棒の如きもの」と納まる名高い句について語りたくないのは、そのためである。これは手摺りの句ではないか。ここにつかまっていれば安心、というところの句ではないか。その安心はたしかに、なまなかな安心ではないらしいとしても、私にはそれが少しも面白くない。これでは、日々の階段の危うさがどこにも見当らないのである。
「一時か半か」─とはつまり、深夜の一時か一時半か。それがすぐには分らないというのだが、さらには戻って、十二時半かも知れぬ、というきりのなさをふくむ。思えば十二時半からの一時間に、柱時計は三度つづけて「一つ打つ」のである。
どの時刻を指すのか分らない「一つ打つ」その音は、名前のない規則性というものをつかまえている。名前のない規則性こそ、一日というものの本性だろう。「貫く棒」の句では、「一年」はあっても、「一日」はない。新年という特権的な名前をもつ時間に対して、「貫く棒」が働きかけすぎているからである。
私が詩歌と日記との関係に心を奪われはじめた理由のひとつは、俳句や短歌がしばしば日記的瞬間とともに生れる、その姿を読んできたからである。
いったいどうして、句や歌というものはあんなにも次々と生れ、句集や歌集というものはあんなにも次々と刊行されていくのだろう。自由詩形式の詩集もまた、とどめがたく次々と生み出されていくものではある。しかしよく見れば、そこにはかなり大きな断絶がある。一般的な行替えのかたちをした自由詩形の詩をあつめた詩集は、けっして循環的な時間とその日付、すなわち季節のめぐりや歳月のめぐりとのあいだに、暗黙の契約を交わしてはいない。対照的に句集や歌集は、客観的な(と見える)時間軸をうちにふくんでいて、この時間軸との連係が、一書の編纂にとって大前提としてあつかわれる場合がほとんどである。そこでは、大きな時間はやたらにいじってはならないもの、という禁止令さえ感じられるだろう。
しかしこのことは、伝統的な詩歌だから、というだけでは説明できない事柄である。というのも、これとは別のしかたで、自由詩のごく短い散文詩形式もまた、大きな時間との接触において、多産に結びつくことがあるからである。とくに断章やフラグメントといわれるかたちに近づくとき、日記的合図とともに火花をつくることがある。フラグメント、すなわち欠片(かけら)のようなかたちもまた、「一行」であるほかはない形式だからである。
いいかえれば、「一行」という短さに近づくとき、「一行」が反復を求め、多産を呼び出す、ということが起る。他の題材をとって「一行」が反復されるとき、すでに多産が宿命づけられているともいえるだろう。
対照的に、「行」を切って、あるいは替えて進んでいく自由詩一般(いわゆる現代詩)は、一見して増殖的に見えるが、それ全体が反復されやすいかといえばそうではなく、多産でもありえない。現代詩は時間軸からこしらえる。自分自身が構築されるところを求めて、一行で終りえたかもしれぬ自分を分裂させ、増殖させていく。するとそこには、大きな時間とのあいだにいくつもの接触点が生れることになる。こうして、一篇のうちにいくつもの「一日」が生れる。
定型の問題や伝統の問題としてだけ見れば、この事態がなんであるかを説明することはできないだろう。いつからか私はそこに、日記的瞬間、それも、より大きな共同の記憶に接するときにスパークする、日記的瞬間を観じはじめていた。
詩と日記との関係を考察するのに決定的であった例をいまひとつ挙げるなら、1995年秋、思いがけぬ機会を得て、ドイツの人々を前に河原温の芸術を論じたときである。これは当時神奈川県立近代美術館の館長であった酒井忠康さんが、ふと頭の中に閃かせた人選のいたずらに端を発したものといえようか。ドイツのケルン芸術協会で開かれる河原温の個展会場で、その絵画について講演する日本人を推薦するよう、共催者でもあったケルン日本文化会館が、酒井氏に依頼してきたからであったらしい。
この特異な芸術のもつ意味を、私ははじめて根底から見つめなおしながら講演草稿を書き起していき、翻訳のために、まとまった章からファクシミリでケルンの日本文化会館に送った。書きつつあるときすでに、知り合いの美術関係者の数人から、河原温は途方もなく厳しく難しい人で、なかなか合格点は与えられないばかりか、場合によっては講演を許さないということもあるかもしれないよ、とそんな脅しまで寄せられてきていた。
それならばここは、日ごろから自分が抱えている言語の問題に添いつくすほかはない、と私は考えた。そのようにしてこのとき展開した「瞬間の革命─言語としての河原温」と題したテーマが、以来、日本語の時間構造についての詩学的思考を、私自身に反芻させてることになったのである。
くり返すことになるが、河原温は1950年代末に日本を去って、永くニューヨークに住む、コンセプチュアル・アートの世界的作家である。もう40年に及ぶ「デイト・ペインティング」の連作《TODAY》シリーズは、制作日の年月日である文字だけを、画布に無機的に描く。別の《I MET》シリーズでは、その日に会った人の名前だけが紙にタイプされ、厖大にファイルされていく2000ページにわたって100万年分の年号をタイプで打った作品もある。
時間で芸術を食ったともいえそうなその作品は、鬼貫の「底」や虚子の「一つ」と等質な、しかし脱日本語的な相をもつ。
この講演で私は、初期の《浴室》シリーズから、《I GOT UP AT》の葉書、《I AM STILL ALIVE》の電報などを論じながら、少しずつ「私小説」に近づいていった。
美術ではありながら、言語としてもあらわれているかぎり、そこでは、人称と時制が支配していること。それが作家の像を完璧に抹消していることによって、人称と時制は個別を離れ、観るものは類的存在の異様なまでの客観性を確かめてしまうこと。そのようなことについて語りつつ、最後にはExileということにふれた。それも「私小説」というものとの関係においてである。ここでは、ドイツの聴衆の知らない「私小説」概念そのものの二重性が前提として必要になった。
「私小説」の一面は、日本人が「私」をあつかうときの、日常や自然の描写の中へ主体を埋没させるという手法の特性を示している。また他面では、日常の中にひそむ死や宇宙や自然といった超越性を、日常の中に腰を下ろしたままであつかう手法を生み出した。肯定的に見れば、「私小説」は宇宙や自然に対して、「私」をどのように消滅、あるいは明滅させればいいのか、という大きなテーマに微細なしかたでかかわっているといえる。
しかし、社会通念としての「私小説」は、自己を恣意的にさらすだらしない自然主義というニュアンスであつかわれ、西欧的な主知主義によって克服されるべき、日本的で湿潤な負の風土の代名詞ともなっている。
すなわち、実相においては他にありえぬほどの主体の危機を充満させながら、それゆえにこそ、否定 克服されるべき風土としてあつかわれているのが「私小説」の二重の様態である。─そんなことを説明した上で私は、これをいいはしなかったが、私自身が詩の実作者として懸案のことに踏み込んでいた。
1960年前後にさまざまな位相でExileであることを選択した河原温は、戦後日本に対しての拒絶者・不在者でありつづけた人である。今日まで、河原温は驚くべき強靭さでこれを貫いてきている。しかし、多くの日本在住の日本人芸術家が「私小説的風土」と自嘲して終っているのとはちがって、「私小説」の真の主題、すなわち「私」の消滅(あるいは明滅)というテーマと根源的な接触をつづけているように思われる。宇宙や自然に対して、「私」をどのように消滅(あるいは明滅)させるかという主題である、と。さらにつづいた。
「デイト・ペインティング」は滞在地の言語によって描かれている。ケルンでの制作ならば、日付の文字はドイツ語の暦表記によって描かれる。ところが、日本に滞在したときはどうだろうか。日本では例外的に、当地の国語(日本語)は用いられない。代りにエスペラント語が用いられる。例外はほかにもあるが、日付絵画がすべて、作家にとっての外国語によってしか行なわれないことは重要である。このことは、河原温が日本語との関係を宙吊りにしていることを、いいかえれば、母国語とのあいだに特別な関係を、たとえそれが拒絶・不在・隔絶の関係であっても、いまだに保ちつづけていることを示してはいないだろうか。
こうして、河原温─言語としての河原温の絵画は、認識すべき客体としての時間の階段となりおおせた言語であり、語るものの自己同一性を危機にさらす、日記的瞬間の言語である。みずからに内在する特定の情念を表出しつづけることをせずに、徹底した外部の空間そのものをExileとして漂う言語、動きつつある形として生成する言語、「私」を消滅させながら事物の暗黒の核心を種子のように宇宙へばらしていく言語である。
「デイト・ペインティング」が並ぶケルン芸術協会での講演は、あらかじめ日本から送った草稿が翻訳されたものとともに手許にあり、1パラグラフごとに、講演者自身の日本語と、翻訳者のドイツ人女性のドイツ語とが、交互に会場に流れる運びだった。講演が終ると、音楽会で聴くような拍手がつづいたが、河原温の姿が会場にないであろうことも、すでに美術関係の友人たちから聞かされていた。
けっして自分の絵画の傍らに姿をあらわすことのない、人類にとっての亡霊のごとき画家は、会期中にもケルン郊外の仮のアトリエで日付絵画を制作しているとのことだった。ドイツ滞在時のものに限られた日付絵画の展示は、時間軸に沿って少しずつ左へ流れていた。つまり、あたらしく仕上がった日付絵画が搬入されると、並んでいたひとつずつの位置がずらされ、いちばん古いひとつが会場から消えていくのである。
私が「私小説」という概念をドイツの人々にまで持ち出したくなったのも、おそらくその徹底した方法のお蔭というところもあろう。だが、この亡命日本人の芸術に対して「私小説」の問題を持ち出せるとしたのは、川崎長太郎を澁澤龍彥とともに読んだともいえそうな、私の詩的経験による確信からでもあった。その確信を共有できる日本の文学者を、私は数人しか持たない。しかし、私の日本の職場にニューヨークの河原温から長い電話が入ったのは、それから一月ほどしてのことであった。
一年居住しベルリンを離れる間際の1999年5月初旬、私は鷗外の詩歌をめぐる小さな講演を、森鷗外記念館で行なった。ドイツ人の日本文学研究者、日本学を学ぶ学生、親日家のドイツ人、在ベルリン邦人などが対象のこちらは、草稿というもののない、ハンドアウトの資料だけは揃えた、ゆきあたりばったりの話である。
文字通り詩歌と日記の合体である「うた日記」のことから、「於母影」「沙羅の木」「我百首」「奈良五十首」などを語り、「独逸日記」を介して散文に移り、詩としての読みに耐えうる随筆「空車」を選んでは、散文に生じるポエジーのことも話した。
話が鷗外最晩年の日記「委蛇録」へと向うとき、私自身、次第に時間の底なき「底」の不気味さにふれる感覚をもった。
鷗外は、各時期の日記をさまざまな書きかた纏めかたによって残したが、最後の「委蛇録」ばかりは他に似ない。特徴は、最小限の備忘であること、漢文体であること、折ふしの詩をふくまぬことである。平仮名の見えぬ、ある時期は一日数文字ばかりの連続は、日本語からも離れるようで、日記とはなにか、と問う者たちに静かな戦慄を誘うかもしれない。
「二日。水。陰雨。参館。大矢透至。」「三日。木。陰雨。参寮。中川忠順至。」「四日。金。雨。参館。餞平野久保乎鵠巣。」
こういう記述が死の直前まで、およそ4年半つづく。まるで河原温の「デイト・ペインティング」、または《I MET》ではないか。
石川淳は戦争下の鷗外論でこれを指し、「詩人晩年の深夜の祈禱であった」と書いた。前後の気合いを読めば、「詩であった」というのに近い。それを講演の最後に強調すると、少壮のドイツ人の学者が、「委蛇録」を詩と呼ぶのは無理でしょう、と冷静な疑義を出してきた。あくまでも比喩ではないか、というものであった。
私は内心で、とうとう論点に来た、という喜びを感じた。「証明」のための時間がもうなくなっていたが、ひとつの筋だけは明らかだった。河原温をめぐるケルンでの講演をそこに接続させればよかったからである。
時間はすでになかった。話を持ち出すことはできなかったが、接続したという実感が、まるで遊歩が獲物に出くわしたときのように私を満たしていた。
「委蛇録」は詩ではないが、詩はそこに深々と影を落としている。
講演準備のときに目にとまった、100年前の「小倉日記」の中の小犬が、無辺際の空間にある私たちの存在の、はるかな明滅を示すようにも思われた。
『遊歩のグラフィスム』(岩波書店、2007年)所収