大室佑介 芸術人類学研究所特別研究員
明治、大正、昭和を生きた私小説家・川崎長太郎が没してからちょうど30年を迎えた2015年、老若を問わず多くの文学ファンの期待に応えるようにして、小田原文学館では特別展「川崎長太郎の歩いた路」が開催された。10月10日から11月29日までのおよそ1か月半の会期中には、文学館で過去数年間に開催された特別展示の平均来館者数の約1・5倍を記録し、その関心の高さをうかがい知ることができた。
芸術人類学研究所・野外をゆく詩学部門では、平出隆教授を中心に2008年頃より断続的に川崎長太郎研究を進めており、文学的な視点のみならず、哲学的、建築的な観点からも川崎文学に接し、2014年からは建築家の青木淳氏、研究者の齋藤秀昭氏と共に「川長組」なるグループを結成し、刊行物やトークイベントなどの機会がある毎にその研究過程を発表していった。今回の展覧会においても、川長組として企画段階から参画し、会場構成を含めた展示構成全般や、配布物などのグラフィックデザイン、さらには展示物の提供まで行い、川崎長太郎を世間に知らしめるまたとない好機とばかりに動き回り、市との協力関係を築いていった。
小田原市のように文化的な水準の高い都市では、作家などの文人が数多く輩出されたり、街と何らかの関わりを持っている著名人などが多いため、文学館で取り扱わなければならない題材が自然と増えてくる。そのため、市の職員が一つのテーマに集中的に取り組むことが困難であり、また、小田原の街と関連させながらわかりやすい形で市民に提示しなければならないという義務からか、やや縮こまった展示になりがちである。今回の展示も例外なく、ましてや川崎長太郎という“シブイ”作家を扱った企画であるため、当初の予定では小田原文学館1階のみを使用したオーソドックスな展覧会として進められていた。しかし、「川長組」が加わったことにより、小田原の外部から専門的な視点で見た川崎長太郎の姿が明確に現れたこと、そして川崎長太郎の物置小屋に関して続けられていた研究成果を提供できたこと、更には晩年の住まいであった「中里の家」の実地調査によって、貴重な新資料の数々を収集できたことなどが重なり、1室だけの予定で進められていた展示室が3室に増え、最終的には文学館全体を使用した大展覧会にまで発展し、川崎長太郎の魅力を伝えるのに充分な土台が形成される運びとなった。
展覧会は川崎長太郎が生まれた1901年から死没した1986年までの期間を追った時間の軸と、生活の拠点とした物置小屋や、毎日歩き回った小田原の街をも含めた空間の軸とを基準にして、五つの章によって構成されている。
第1章では「詩人の日覚め——青少年時代」として、文学少年として過ごした若かりし頃の姿について取り上げている。実家の魚商の仕事を手伝いながら文筆活動を始めた長太郎は、小田原の詩人である福田正夫や、詩人・評論家である加藤一夫などからアナーキズムの影響を受けつつ、友人らと文学雑誌を発刊するなどの活動を続け、文士としての基礎を構築していった。展示では、アナーキズム詩人としての眼光鋭いポートレイトや、当時発刊された雑誌『シムーン』『赤と黒』の復刻版などを時系列に沿って展示するなか、小田原にあった生家のモノクロ写真や、旧小田原中学校を放校されるきっかけとなった「文芸百科全集」などの貴重な資料を織り交ぜ、青少年期から大正12年(1923)に発生した関東大震災までの活動を紹介した。章の最後には、2014年に平出隆・齋藤秀昭編で刊行された未収録エッセイ集の『姫の水の記』と震災直後の写真も展示され、壊滅的な被害を受けた街の様子を見ることができる。
第2章では「私小説家としての出発」と題し、小田原の実家が震災によって倒壊した頃から、戦中、戦後のあたりまでの激動の時期をまとめている。この頃上京した長太郎は、徳田秋聲や宇野浩二と出会い、詩人から私小説家へと転身して新たな展開を見せ、デビュー作である「無題」のほか、初の小説集である「路草」や「裸木」などの代表作を生み出した。戦時中にも書く事をやめず、匿名で執筆した文芸批評や、父島での徴用を題材とした小作品なども陳列され、戦争による不自由な状況がよくわかる。
戦後の活動を扱った第3章では「抹香町ブームと物置小屋」に焦点をあて、一躍時の人となった長太郎の黄金期を取り上げている。展示室を1室まるごと使用し、抹香町を題材とした作品群と、物置小屋についての描写に多くの頁が割かれた作品とを二分して配置し、直筆原稿などをズラリと並べた。原稿には担当編集者による赤入れや、作家本人の手による書き直しなど様々な痕跡が見られ、また、脳出血の影響によって不自由になった右半身に代わって用いられた、利き手とは反対の左手による筆跡とを比較することができ、作品と格闘する作家の姿勢に触れることができる。原稿群の中心に据えられた縮尺1/10の物置小屋全体模型は、今回の特別展に合わせて新たに制作したもので、これまでの研究によってわかっている物置小屋の情報を基にして更新されたものであり、直筆原稿と模型とを合わせて見ることで当時の雰囲気を感じられる展示空間となっている。
第4章「結婚、中里の家——歩いた路」では、物置小屋での生活を終えたあとの様子をまとめている。昭和37年(1962)に30歳年下の女性と結婚し、小田原市内の中里に転居した長太郎の晩年の作品や書簡、遺品などで展示室を埋め、また、9月に行われた中里の家の調査によって発見された新資料についても公開し、今後の研究の足がかりをつくることにも成功した。「川崎長太郎全著作」を収めた大展示ケースは、長太郎の作家としての活動の全てを見て取ることができる迫力ある展示となっており、展示室の最後には長太郎の散歩コースを示した地図が掲げられ、長太郎が立ち寄った場所や、作品の題材となった風景など「歩いた路」を辿ることができるようになっている。
文学館3階の応接室では、第5章として今回の特別展の目玉の一つである原寸大で再現した物置小屋が設置されている。これは、長太郎が20年間暮らした海辺の物置小屋の一画を、小説作品での描写や数枚の写真を基にして再現したもので、小田原市内の農家や農林組合の貯蔵施設などから提供された材料を組み合わせて作られている。建物の構造となっている杉の丸柱や、外壁のトタン板、スノコ状の板間の上に敷かれた2枚の赤畳、机がわりに使用していたビール箱など、使い古した「味」のある部材だけで構成されているため、古びた匂いの漂う空間が出現し、文学館全体を使った特別展の最後を締めくくるのに相応しいインスタレーションとなった。
会期中の11月23日に小田原市民会館で行われたシンポジウム「川崎長太郎・小屋と世界」では、当初の予定人員である100名をはるかに上回る140名もの入場者があり、壇上と会場とが一体化したシンポジウムとなった。
基調講演として、齋藤秀昭氏による川崎文学の紹介を兼ねた川崎長太郎論、大室による物置小屋再建計画とその意味、青木淳氏による川崎作品の中に見える建築的なことについて、平出隆教授による「新しい天使」との関係についてなど、川崎長太郎を中心に展開される一般的な文学講座とは一線を画した講演を行い、後半のフリートークへとつなげていった。シンポジウム後半の様子については小田原市文化部長である諸星正美氏による感想があがっているので掲載しておきたい。
「まず、一人一人のリレートークが、個性的で素晴らしいものでした。いまや建築界でトップランナーと言える青木さん、若手として先鋭な活躍をされている大室さんの建築家からの視点による長太郎文学。そして齋藤さん、平出さんならではの、長太郎文学の本質に迫る切り口。小屋の話から、私小説の本質へ。『長太郎は、私を虚しくすることで世界を描いた』、『私小説とは、自己表現ではなく、自己を消すことで世界を捉えている文学だ』。西洋哲学の『私』と『表現」の関係性から、文学にとどまらない、建築デザインなども含めた、『表現』の問題へ。ここに、川崎文学が世界文学になり得る可能性が示唆されました。川崎長太郎の私小説が、世界に通ずる文学となる可能性が見えてきた、文学史に残る、画期的なシンポジウムでした。」
シンポジウム、展覧会ともに好評のうちに幕を閉じた。物置小屋に住みながら小田原の街を歩き続けた川崎長太郎の遺した文学作品は、近い将来、日本を代表する世界文学となっていくことだろう。
Art Anthropology2016