Y-4 室
Kazuo Okazaki
Ikko Narahara
存在のエレメントから言語への変換が生じる場所としての書物。大地に由来するインクが文字となり、意味やイメージを産出する──平出はバシュラールらを参照しつつそのように語っています。本を読み、書くという行為を通して、世界の物質が言語の夢を見る、と。岡崎、奈良原、瀧口、デュシャンの間のモチーフの継承や変形も、美術の平面で生じた影と実体の変換として読まれうるでしょう。
岡崎和郎
Kazuo Okazaki
テクスト:河野道代
1956年前後に鉄の彫刻を始める。62年頃から物の鋳型や影、空洞などがもつ虚の表現性に着目し、やがて「補遺」という基本概念を見出す。身の回りにある事物やイメージを引用し、それらの内実を反転させる手法によって、静謐な存在感とユーモアの軽みを湛えた精巧なオブジェをつくり続けている。
岡崎が「補遺」に連なる発想を得たのは、中空の物体の内側に石膏を入れて外側を割るという、それ自体はありふれた手段に着目したときだった。しかし、何かをつくり続けるためには「言葉」が必要になると岡崎は言う。「補遺」という言葉が、あるとき「概念」として発見され、制作上の指標となった。
ものの考え方を伝えるには同一主題を変奏した作品を量産するほうがいい。岡崎はこのマルティプルの思想を、多種のオブジェを流通網に載せる企業体 Giveaways として実践した。メールアートのフォーマットを変奏し流通させる平出隆の《via wwalnuts 叢書》の実践との類縁をここに見て取れるかもしれない。
岡崎和郎は近年、河野道代の散文『時の光』に注目。オブジェと言語が互いに隔たりながら近接し、影と実体の関係となる「本」の制作を提案した。河野道代は詩人。若林奮と《花(静止しつつある夢の組織》を制作し、若林歿後は追悼を込めた詩集『花・蒸気・隔たり』により、言語と造形の間に高度な詩的次元を開いた。
岡崎和郎と奈良原一高はともに1954年に早稲田大学大学院に進学し、同時期に美術史を学んでいる。あるとき2人は、デビューして間もない河原温を訪問、空間把握の意欲的な実験に満ちた具象画のシリーズに大いに関心を寄せ、《物置小屋の中の出来事》、《浴室》をそれぞれ1点ずつ購入したという。
花・idea
馥郁たる香りも、蘂深く秘めた花蜜も、露
を転がす花弁のしなやかさも具えない花が、
水のない器から、花の声で問いかける。―― 人はなにをもって花を花となすのか。
花とはなにか。感覚と認識とがそぞろに交錯する虚実の間
(あわい)に、花が咲いている。個体であり
また普遍である、内なる光の造り上げたもの
として。それは時を超えて薫るだろう。心のない花
の、その心のように。
岡崎和郎
《三つの心器》造花の椿を挿す
罅・impulsus
うつくしい破壊か、くるおしい胎動か。過
ぎ去った濃密な時間を伝えて、罅割れた物体
は静かな影の上にある。光の届かぬ亀裂の奥では、さらなる力も萌
すのだろう。黎明の外れを走り抜ける、時々
の雷鳴と呼び交わしながら。それは示している。完成とは、なにか動的
なものによってもたらされる、不意の安定で
あることを。
岡崎和郎
《三つの心器》MAGICストーン
瞑・lux
盲いた光。それは直進する単純な煌きを
ひっそりと逸れて、回想と観照の交錯する起
伏多い暗がりを旋回する。輝きを奪われた光として、こまやかに、も
のやわらかに、それは触れる。壊れれば薄く
尖った破片となる、知覚の容れ物の内側へ。盲いた光は照らす。幾重にもずれていく瞬
間の中の真実を。無常の内に息づく永遠のは
かなさを。
岡崎和郎
《三つの心器》DARKバルブ
識・sensus
心よりもありありと、掌は感知する。温度
を通して、感情を。硬度を通して、本意を。
そして形態からは、意識の段階を。掌は掬い取る。抑制されてなお波立ちやま
ぬ悲しみを。胸深く秘められ、慎ましく息づ
いている歓びを。枯れ落ちた枝が、掌を待っている。対話の
跡をとどめる頑なな欠片の傍で。何人(なんぴ
と)も識(しる)しえぬ、含み多い樹木の思
惟を伝えようと。
岡崎和郎
《槁枝掌岩》
廂・motus
完結した物語の余白から
ふいとあふれて
あふれるままにせり出してくるもの。
時空のゆがみを明かす
やわらかな断言となって
不敵な反問となって
天にも地にも属さない
唯一の光軸を切り開きながら。滴り落ちる光と影を
等分に計測し、選別し
落体となるかならぬかの臨界で
それは静止する。
精神の物質性についての比喩を
物質として超え出るために。
流動する光輝の危うい均衡を
磨かれた意識の比喩となすために。
岡崎和郎
《HISASHI》