物の秘めたる

──言語と形象の谿で

平出隆

 どのようにしてこの美術家と出会い、どのようにして対話といえるものが成り立ってきたのか、と折節にふり返ることがあった。その相手が、いつのまにか十指に余るほどになっていた。
 あの方法を詩に置き換えるとどうなるのか─言語を組み立てていくほかない私自身の模索が、制作上の困難に際し、藁をもつかむ思いでつかんだといえそうな、一筋一筋の美術的な光があった。それらがいつか、より勁い一筋に撚りあわさり、私の言語の迷宮にとってのアリアドネーの糸となったか、とも反芻されるのである。
 頼りになる方法的啓示が詩の領分から来ることはむしろ稀れで、私の場合、科学や哲学や美術の中にこそ、つかめそうな光が多かった。これは門外漢のゆえか、言語の外へ、物質の方へ、という詩の属性によるものか。ともあれ、ジャンルを超えて思考するには、物事の根源に立ち返るほかない─すなわち、時間と空間を問い、物質と精神を問い、言語と形象を問うことが必ずや求められる。
 美術家たちの手許から得たアリアドネーの糸の力はめざましいものだが、それが藁から光る糸へと変ってくれるのには歳月を要した。私の言語的迷宮はそれを手繰るたびに揺すられ、裏返され、ついには外部へ曝されるという危険な過程を、恩寵のように幾たびも得た。

 詩の行為は、言語を物として扱うことで、物質に呼びかけようとする。物として扱う、とは音の響きや文字の質感を最大限に発揮させようとする衝迫のさまを指すが、一篇の詩が物へと至ることはついにない、ということを逆に証している。言語はそもそも、物との絶対的な隔たりにおいて発生しているからである。
 一方で美術の行為は、直接に物質に働きかける。そのつくるものは基本的には物質である。美術の場合はむしろ、依然として物であるはずのものが、あたかも物とは別の次元へと移行してしまい、「作品」としてしか見えなくなる、ということが現象するといっていい。
 美術家たちは、彼らの行為において言語を探しているわけではない。だが、物質を介して「作品」と呼ばれる言語らしきものに触れ、あるときはそれを実現させもしている。それは来るべき言語とも見え、自然が太初より秘めていたものを取り出してみせたかのようにも見える。

 私の中で言語と形象が「谿」をつくった一例を挙げよう。
 少年時代、受験参考書に囲われた小さな洞窟状の壁面に、くり返し眺めている図版があった。あまりにたびたびそのページを開いたために、切断無線綴じであった美術雑誌からはらりと落ちた一丁は、ピンで留められていた。木箱の中に鸚鵡のいる作品であったが、1960年代末の日本の少年には、作者にまで考えが及ぶことはなかった。
 しかし、1978年、日本橋の雅陶堂ギャラリーで開かれた日本で初めてのコーネル展で、10年ぶりにこの箱を間近に観たとき、しばらくはなぜ、と考えていた。なぜ、机上の洞窟にあの色刷りの紙葉は留められていたのか。一つの箱の中で、時は場となり場は時となり、意識は二つの時のあいだを往還したものだ。
 この記念碑的な展覧会を企画した瀧口修造は、コーネルとついに相会うことはなかったが、精神の兄弟というほどに呼びあった存在である。詩集と呼ばれるものを刊行することさえ恥ずべきことと感じつづけていたらしい瀧口修造と、最後のシュルレアリストと呼ばれながらも大文字の美術史に組み入れられることを生理的に拒否したコーネルとは、その拒絶の強度において同じ眷族に属する。二人が共有していたのは、秘かにして無垢なものであり、孤独の部屋から世界へ手紙を書きつづけたエミリー・ディキンソンの姿であり、ステファヌ・マラルメが ptyx と造語で指し示した極小の空虚を孕む壊れものであったりした。言語と形象とは、そこではまったき隔絶ではなく、半ば溶融していた。
 1930年代に書かれた「詩と実在」は、1967年刊行の『瀧口修造の詩的実験』にようやく収載されたが、その際にも(未完)の文字が付されて現在形であることを示された書きものである。詩作に対する信仰の継続や詩的形式を世襲財産と尊重する世の中に対して、いわば決死の否定が行なわれている。「現実、─ぼくの唇が火傷しないのがむしろ不思議というべきだろうか」。
 非在と実在とのあいだで「現実」を希求する思考が、ある潔癖さとともに定着されている。言語と形象のあいだでの「物質と精神との反抗の現象」だけしか、詩として認めない。そうしてみれば、1967年に刊行されて蘇った1930年代の言語制作物、それを詩と呼んでしまうことは、敬意の表明を放棄することにもなるだろう。
 

詩は信仰ではない。 論理ではない。 詩は行為である。 行為は行為を拒絶する。 夢の影が詩の影に似たのはこの瞬間であった。(未完)

「詩と実在」は、このように終っている。「物質と精神との反抗の現象」は、原理としてさまざまに呼び変えられるはずである。しかし、それを見出しえたのは、少なくとも瀧口修造にとって、戦後の詩ではなく戦後の美術においてであったろう。あるいは彼自身が、眼の人から手の人へと移行することが必然となったことも重要である。「谿」に佇むとは、懸絶を抱え込むということであると同時に、眼と手の双方の味方につく、ということでもある。
 こうして瀧口修造は、詩史の上の詩人としてのいさおしを早々に放棄しながら、言語と形象のあいだにみずから進んで落ちた人であり、20世紀の言語と形象の双方を見渡そうとした人だった。

 1970年代初めという時期に詩作を公表しはじめた私は、すぐに加納光於、中西夏之、若林奮という真に苛烈な美術家たちの作品に惹きつけられた。もちろん他にも多くの現代の美術家たちに惹かれたものの、この三者に共通している言語の使用法の一側面に、詩の言語と異なる詩的言語、つまりは美術に固有の言語というもののありかたを嗅ぎつけたように思い返される。
 しかし、事は詩と美術の出会いといった幸福なものではない、ともあらかじめ観念されていた。なぜなら、それは詩句を求めて得られた言語ではないからで、美術における過激な探究の残した思考の余燼のごときものだからである。そこからふたたび火は熾り、言葉とともに制作は転移していく。
 私という詩作者が汲めども尽きぬ詩のエッセンスを見出したとしても、それは詩語や詩句を得たという意味ではなく、そのような燃焼や転移そのものを目撃したという意味である。
 最近になって、ふと気づいたことがある。閉じられた書物というものを見て胸騒ぎを覚える人間の心理には、たとえば一塊の岩の中に声を聴き取ったというような、太古の記憶が由来しているのではなかろうか、ということである。知識欲や好奇心や愛書趣味などがそうさせる場合もあるだろう。だが、そうしたことによってだけでは説明しきれないと考えたのは、ここに並ぶ美術家たちがつくり出した「書物」の徹底した形相を思い返していてのことである。
 ダダやシュルレアリスムを経て、文字や記号が、美術作品の表面に氾濫しはじめた。あるいはフルクサスやポップアートを経て、文字や記号の扱いに禁忌も抑制もなくなった。リーヴル・オブジェやアーティストブックはつくりつづけられ、その一方、作品に寄り添うかたちで、記録や註やエフェメラの形式が生れはじめた。それを美術の素材や支持体の変遷として見たり、テクストとイメージの関係の変容として見たりすることはできるだろう。
 だが、そこに現れている「谿」のトポスは、より大きな時空の探究へと人間を誘っているように思えてならない。
 たとえば、加納光於の仕事は版画と呼ぶことに収まらないが、『葡萄彈−遍在方位について』に見られるように、マテリアルの揺動を言語とともに遍在化させ、なおかつそこに版の反転を司る見えない骨を据えることで、見えない大きな書物の懐ろにわれわれを投げ入れるような仕事に見えないだろうか。
 たとえば、岡崎和郎の明快かつ一貫したオブジェ制作は、物体の虚の内実を反転させるばかりか、物が対応する「語」をも反転させていないだろうか。だからそれらのオブジェが集合しまたは複製化されるとき、私たちの意識は、まだ経験したことのない抽象的な「谿」の地勢を、書物として経験しているのではなかろうか。
 1976年のモーリス・ブランショの雑誌特集に加納光於、中西夏之、若林奮が仕事を発表している。しかも尋常な程度の関わりではない。この極北の言語思想に直接に対峙しつつ、新しく連作《境川の氾濫》を重ねあげていった若林奮は、ブランショが示す極限的な書物のページ概念と、自身の紙葉とを重ねてみないで済まされたものだろうか。境川は「谿」としてあふれる。

 1970年前後は、60年代の詩が拡散させた野放図な幻想が褪せてゆき、詩もまた散文や論理によって厳しく問い直されなければならない時代へ移りつつあった。あらゆる物が情報と意味を幾重にも被せられ、人の視線は直接にそれを知覚できない、という様相が飽和に至っていた。物はもはや言語と呼応しあうことがなく、主体がそれを、そのままで対象物とすることは不可能になった。
 私の批評は1970年、モーリス・ブランショの言語思想に影響された現代詩の詩意識をめぐっての論争の整理に始まった。また、想像力の源泉は物質にあるとするガストン・バシュラールの詩学を読むことによって、詩を科学哲学と接続して考える道を与えられた。基本的には、人間中心主義や素朴実在論への批判、つまりは、物と出会わずして出会ったかのごとくする振舞いへの批判であった。
 1980年のこと、「多方通交路」と名づけて1年間連載しつつあった私に、論の構えにおいて『出会いを求めて』(1971年)と響きあうものだ、と、その本の著者からの感想が伝えられた。物が対象たる力を失った状況について書いたときだったろうか。李禹煥は折柄その年の表紙絵を担当していて、読みついでいたものらしかった。
 このほどあらためてあのめざましい書物を開いてみると、現代において物と向きあい、存在と世界の出会いの直接性を得るためには、出会いを構造化させ、瞬間から持続へと転じるための媒介項を要する、とあることに注意させられた。
 すると、詩と美術の双方からする思考の交換には、個々の人間同士の対話以上に、媒介物をあいだに置いての対峙がなによりも必要となるのではないか、という考えに、私は導かれていった。

 ところで2010年以来の《via wwalnuts 叢書》の試みは、活版印刷の衰退や紙の本の危機、支配的な出版流通の圧制、読み書きの荒廃などに対する対抗であり、それ以上に自身の書くことの持続を賭けたところから発するものだった。「背水の本」「エクリチュールとしての造本」、「生存としての造本」、「一人から一人へのブックデザイン」などと標語を変えながら、2016年に「空中の本」という概念に至った。ドナルド・エヴァンズへの架空の話しかけと、河原温から得た厳密なコミュニケーション論の教えがそこに反映している。そこでは言語と形象とを媒介するものとしての、見えない言語が形をとりながら「谿」の中空に架かる。
 危機にある書物が教えるのは普遍性ではありえない。半ば開き、軸を据えて回転もし、両岸をはためかせもする「谿」が、人類の起原の地勢に関わるがゆえに、すべてを出会わせる場の可能性を秘めるのではないか。
 デモクリトス、エピクロス、ルクレティウスからバシュラール、ミシェル・セールまで、詩学と原子論との出会いは、すでに系譜を成してさえいるからである。そこに現れるトポスは、先に見たように近現代美術における言語の氾濫によって可視化されているだろう。
 マルセル・デュシャンの《大ガラス》を写した奈良原一高の写真に、瀧口修造はどのような言語を書き添えようとしていたのだろうか。そこはまさに空間と時間をめぐる思考を、物質的に遂行できる書物論的な磁場であった。言語と形象との双方から干渉されるようにして、すべては罅に導かれ、物の秘めたる光へと向っている。

 建築家の青木淳は、私の「空中の本」の構想に耳を傾けてくれ、対話の終りなさを明快に設計してくれた。そればかりか、そのトポスが「谿」をなしているというところまで読み取り、透明梁と吊架線を用いてこの展覧会の会場を「建築」してくれた。やがて消えるだろう迷宮を踏まえながら、私はここに現れた十余人の美術家たちについて、なお多くの批評的な研究を重ねていくつもりである。彼らの姿はいま私に、古代の歴々たる哲人たちのようにも見えている。