ふれとかさなりの線

──彫刻家・若林奮の言葉

澤 直哉

そしていま 私は学ぶ
夏に石筆で 搔かれた日記を
燧石と大気の言語(ことば)を
闇の層と 光の層と
  ──オーシプ・マンデリシターム

 作り手の眼は、見ることと触れることとのあいだを振れる。その眼の見るものは、手によって作られるものとしてだけでなく、言葉としても現れる。見られることと触れられることとのあいだを振れながら、ものは、時間は、空間は。
 なぜそれらは、その二態のあいだを振れるのか。またその二態はなぜ、ときに触れ合いながらも、完全に重なり合うことがないのか。哲学や美術理論、認識論といったものは、それなりに手応えのある回答を与えてくれもしよう。
 だが「なぜ」という問いかけに対するそうした手応えが振れを、矛盾や不安定さを受けとめてくれるその裏側で、振れそのものの、そしてその発生のありさまは、ほとんど問われることがない。振れそのものは、その発生は、この手応えの手前に、あるいは奥にある。
 それを見よう、それに触れようと思うなら、この振れに、それに寄り添う言葉に、自身の言葉を重ねていくほかない。そうした行為の積み重ねがただ、既知の事柄を徒らに揺さぶり、この振れを増幅することでしかないという予感はすでにある。
 それでもなお、と拘るのは、作る手と触れるものを持たぬ者が触れられるのは言葉しかない、という果敢ない信憑と、作る手の触れられぬものにこそ触れようという、屁理屈じみた悪意とによって。