『多方通行路』(書肆山田 2004年)後書。同書中の「i 多方通交路のこと 一九九四」に対応。共に「多方通交路──詩の戦意のために」(「現代詩手帖」1980年12月号/『破船のゆくえ』思潮社 1982年)を原典として派生したもの。
ⅱ 多方通行路について 二〇〇四
本書の刊行は、私の最初の詩論集である『破船のゆくえ』及びその後の評論集中の主要評論の復刊を、書肆から求められたことによる。
そこで私は、『破船のゆくえ』のうち、その主柱である、一九七九年末から一九八〇年中にかけ「現代詩手帖」誌上に書きついだ一連の「時評」だけを蘇らせ、その余の、またその後のおびただしい評論や書評からは拾いなおさずに、ごく最近のものに連繫させる道をとった。すなわち、二〇〇〇年五月から二年間務めた「朝日新聞」紙上でのいわゆる「文芸時評」(「文芸21詩歌」と題された)へと、二十年の時をへだてて、半ば強引につないだのである。
二つの「時評」のあいだには、一九八〇年代に文芸雑誌や一般の新聞に「詩の時評」を務め、かつそれらを意識的にやめていったという経緯がある。また、一九九〇年代前半には私の、さらに決定的な「現代詩」ジャーナリズムからの離反があった。理由を批評的に要約してできないことはないが、ここでその必要はないだろう。詩を離れて詩を思考することのできない人々と話をするのが苦痛になった、と語ることのほかに。
詩を離れて詩を思考することのできない「現代詩」への私の批判は、一九七〇年代後半に兆していたが、一九八七年刊行の詩集『家の緑閃光』などをへて、一九八八年にはもう逆行不能になっていたように思う。しかし、四半世紀のあいだ、私の中でそれは、形式批判的な制作としてつづいてきた。興味のある方には、散文や短歌をふくむ私の作品集にあらわれているものへと、ここからつないで、そのつなぎこそを進行中の「多方通行路」として読まれることを希望したい。
多方通交路から多方通行路へ。二十年の時をへだてることでかえって、批評と制作にわたる複雑な通路に、ひとつの奇妙にも概念的な遊歩が、幾条かの傷として浮んだと思う。