子規たちと子規

平出隆

 毎年九月に開催される根岸の子規庵での糸瓜忌特別展示に、私は幾度か協力してきた。庭に立つ蔵の中からあらわれる遺品遺墨に目を凝らし、子規という人の精神の骨格を少しずつ取り出して示す作業である。その過程で見出したのは、俳人子規、歌人子規のほかに、次のような子規たち・・・・であった。
 アイデアマン子規、デザイナー子規、エディター子規、プロデューサー子規、草花の画家子規。
 これ以前に私は野球愛好家として、ベースボール・プレイヤー子規、ベースボール伝道師子規にすでに出会っていたから、そのいくつもの顔はやがてひとつの存在の多面として見えてきた。
 「アイデアマン」とは少し古臭い呼称だが、それも明治の人にはふさわしいだろう。そしてこの、発案者としての一面が、他の多面性をつなぐ要にもなっている。少年時代にせよ青年期にせよ、その遊びかたにおいて、研鑽のしかたにおいて、子規は次々とアイデアを打ち出し、強烈な牽引力で仲間たちをも巻き込んでいった。
 「デザイナー子規」の証拠には、松山中学時代の「罫画」が残されている。当時の美術教育で、方眼紙の上に正確に物を描け、という課題に応えたものである。さらには上京後、明治二十年当時最新であった、写真製版による政府発行の地図で、道路や地名の上に、子規はきれいに着彩していた。地図の裏に秩序立てて書きつけられている地名の配置などにも、デザイン感覚といっていいものが見出される。
 数や形を主導させての思考の枠組づくりは、精神の研鑽手法としての広義のデザインといえる。そしてデザインにおける階層構造やグリッドの認識は、江戸時代の「俳句分類」という大仕事の手法につながっていく。たとえば「一家二十句」と決めると、一人の俳人からは二十の句をかぎりに採る。また、仲間たちとの句作遊びの「競り吟」では、あえて「拙速を尊ぶ」を旨として百句詠むこと、などと決める卓抜なルールづくりが機能した。
 「エディター子規」はもっと若い時期にさかのぼる。なんと満十一歳で、自身の手書きによる回覧雑誌「櫻亭雑誌」を刊行した。みずから創刊を祝する文を掲載するなど、メディアへの意識の鋭さには特筆すべきものがある。北斎の案内書『画道独稽古』に学んで、イラストを描き込んだりもした。
 「一帖を綴づ」といったのは、半紙を二つ折りにしてそれを綴じること。これは「櫻亭雑誌」から「筆まかせ」を経て「仰臥漫録」「草花帖」「玩具帖」に至る。筆と紙を人一倍つかったということが、妹律の証言にあらわれる。
 「プロデューサー」としては、江戸時代からの月並俳句を打破するために組み立てた通信句会のシステムが挙げられる。
 子規庵での月例句会とは別に、新時代の郵便制度の速さを利用して、郵便回覧句会「十句集」を催したのである。これは、同じお題で一人が十句を作り、幹事のところに送る。幹事は名前を伏せて清書、それを簡素な一帖に綴じて第四種郵便物として参加者の一人に郵送する。受け取った者は二十四時間以内に互選をして、次の参加者へ郵送する。郵便が一周して選句の結果が決る。
 こういうことを指して、子規一流のプロデュースというのは、遊びかたやルールの考案としてあたらしいためばかりではない。時代の情勢とめざす企図との合致が卓越しているのである。
 つまり、新時代のメディアや通信制度に敏感であっただけではない。江戸期から残ってきた古い俳句界の体質として、神社が主宰していた「文音所」というものがあった。コンクール形式で俳句をあつめ、参加費をとって本にする制度である。壊したい相手もまた一種の郵便制度の上にあることを見抜いていたからこそ、同じ通信制度をゲリラ的に、あるいはむしろミニマルにつかって、刷新の武器にする、という洞察があったのだと思われる。
 そうしたささやかな刷新が、次々と繰り出されてくるところ、それが子規という精神の場所であったといえるだろう。「草花の画家子規」は、その場所に、最後にひそやかにあらわれる。

民藝のなかま20151204