「原本」という medium

平出隆

 『筆まかせ』とは絶妙の題である。多くの場合、これは一種のイクスキューズとなるだろうが、子規の場合そうはならない。勢いをつけ、威勢をつけて、あとは滞らない筆の奔流である。
 私がこの随筆集をはじめてひもといたのは、十余年前、子規におけるベースボールのことを総浚いしてみようと試みたときのことであった。他の文献については『松蘿玉液』にこのゲームの規則を紹介する文章を見つけたり、俳句や短歌にその種の題材の作を探すことがあったりした。『筆まかせ』はといえば、有名な大谷是空との往復書簡が書き写されてある。子規が野球のユニフォームを着てバットとボールを手にした姿を写真屋に撮らせたものを送ると、是空がそれをひやかして達意の文を返してきた。
 ベースボールについてはほかにもあって、それは寮生たちと遊んだときの情景やスコアブックである。こういうものが平然と入っている散文集というものを、あえていえばこよなく高雅なかたちに感じたものである。ベースボール関連のところを探しながら『筆まかせ』全体を見渡していて私は、さんざ脇見や寄り道をはたらかせた。番付あり、事典あり、統計あり、判じ物あり、書簡の写しあり、連歌あり、そればかりかスケッチや略地図まで入っている。
 十余年前のことだが、いま思えば、そこにすでに、その後私の中に年来熟し、このところおのずからかたちを成してきた試論的なテーマが潜んでいたと思われる。私はそれを、一方では「時間を書き留めること」と呼び、一方では「形式が百出するということ」というふうに呼びたいと思うようになった。
 まずは疑問がある。私たちは『筆まかせ』を、一応は随筆と分類することにしているが、果してそれで済むものだろうかという素朴な疑問である。
 『筆まかせ』は新聞や雑誌に書かれたものではない。断章というものを一種の形式と考えてみるとき、それは起承転結を求められない自由気儘なスタイルとして考えることもできるし、さまざまな対象をてんでんにとりあげることができる効率的な遊撃とみなすこともできる。もしそれが形式の形式性としてきわまっていけば、言葉の凝縮としての言や格言といったところまで煮詰っていくものかもしれない。ところが、子規の断章はそういう煮詰りから遠い。すなわち断章形式として煮詰らないために、その形式の中に百の形式をふくませてしまう、というふうに考えることができそうなのである。
 それからもうひとつ、これが原本一冊きりの書物として成立しているという事情がある。『筆まかせ』はそもそも、上京後ほどなくして十六歳の子規が書き起した雑多な文集で、九年間その手許で半紙に綴られた。第一編から第三編までは和装に製本された。最後の第四編は仮綴である。第四編には年次不詳のものもあるが、およそ明治二十五年までの書きものである。ということは、学生生活を背景にした「初期随筆」ということになるが、これが意味するのは、たんに若書きということではないだろう。いわゆるメディアとの関わりをひとまず断たれたところで成立している、ということである。裏を返せば、子規の人並みはずれた記録癖をみたしてくれるもの、としての成立ちも示す。
 『筆まかせ』の中に、こんな一節がある。この書きものの性質をみずから語るものとして、よく引かれる箇所である。

此随筆なる者は余の備忘録といはんか 出鱈目の書きはなしといはんか 心に一寸感じたることを其まゝに書きつけおくものなれば 杜撰の多きはいふ迄もなし 殊にこれは此頃始めし故書く事を続〻と思ひ出して困る故 汽車も避けよふといふ走り書きで文章も文法も何もかまはず 和文あり 漢文あり 直訳文あり 文法は古代のもあり 近代のもあり 自己流もあり 一度書いて読み返したことなく直したることなし

こういう、文字通り「筆まかせ」であるほかない書記速度の維持にも驚かされるが、こうしたやりかたは、明治二十年前後の日本語のありさまやそれについての当時の人々の意識のもちようにも関わっていた。少しあとにつづけて、子規はこう書いた──「其拙劣なる処、不揃ひなる処が日本の文章を改良すべきに付きて参考となることなしとせんや」。
 これは竹村築卿(鍛)に語ったせりふとして書かれ、「と笑ひたり」というはにかみがつづいて終る。少し大袈裟にいったものだ、というニュアンスだろう。
 だが、「日本の文章を改良すべきに付きて」はあながち放言でもなく、子規のような人の心中にあっては、棲みついていた大きな夢のひとつであったろう。としても、この限定一部の書物のありかたは、個人の文箱の中に収まるところの、まずは「備忘録」というものであった。大きな夢とそれへ向う筆づかいとのあいだを、自分自身の時間を書き留めようという別の衝動のかたちとしての、文箱がへだてた。文箱にへだてられて、しかし「筆まかせ」はいっそうその速度を自在に速め、いっそうさまざまの形式をその中に繰り出したのである。
 最初の全集である、大正時代に刊行されたアルス版『子規全集』では、楽屋落ちに過ぎないようなもの、限られた人だけの興味に過ぎない記事は多く採録を見合せた、という意味の編集後記が見られる。その見合せられたものの中には、大谷是空からの書簡や「舎生素球番附及び評判記」、絵や略図、とくに友人たちとの合作の絵等、私などがはじめて見たときに目を瞠らされたものが並んでいたわけである。
 ところで、昨平成十四年の私の一番の喜びは、子規の「仰臥漫録』の原本を見ることができたことだった。五十年も行方不明だったのが、十三年の暮れに子規庵の土蔵から二分冊の原本があらわれ、芦屋の虚子記念館に納められた。再発見後はじめての子規にまつわる展覧会である「正岡子規──関西の子規山脈」が、伊丹の柿衛文庫でひらかれたとき、虚子記念館から貸し出された現物を、私は東京から見に出かけていった。このとき、新聞に書き継がれた『松蘿玉液』や『墨汁一滴』や『病牀六尺』などと根本からちがう『仰臥漫録』のありかたに否応なく気づかされた。すなわち、印刷にまわされるものとして書かれたのではなく、目前の半紙を最終的な停泊地とする言葉のありかたについてだった。
 『松藩玉液』『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』を子規の四大随筆とする見方に異を唱えるつもりはない。だが、『仰臥漫録』は他の三つとはちがって、まずは、発表を前提としないで書かれた私記なのである。虚子が『ホトトギス』への掲載を促したら、私かに記す愉しみを奪われてはたまらないと、子規はそれを拒んだ。
 それにこれは、画帖でもあった。明治三十二年夏、中村不折からもらった使い古しの絵具で枕元の活花や盆栽を写生するということをはじめると、これまで以上に子規の筆先は、言葉と図像とのあいだを自由にゆききしだした。
 死後、大正七年に岩波書店から複製が刊行されたが、その後、絵の部分を挿絵図版とし文章をすべて活字化した『仰臥漫録』が刊行されると、それは他の三随筆と並ぶ「本」となった。それでも、『仰臥漫録』には「原本」がある、という事情は変らなかった。『仰臥漫録』はその根において、他の随筆本とはちがうものだったのである。
 それは大判の土佐半紙をあらかじめ草紙状に綴じ、仰臥した人の逆さまの筆がその白を埋めていったものであった。届いた絵葉書をそのまま貼り付けたり、贈られたチキンローフの缶詰のラベルを模写したりしはじめると、草紙全帖は、さながら現代美術でいうartists bookという形態に近づくようでもある。本という形態であると同時に、複製されることを本来的に拒んでそこに時間を実在させる「漫録」は、その人のほかはごくごく親しい者によってしか開けられることのない玉手函である。
 だが、この形態は、時間がその中に持ち込んでかくす、もうひとつの兇暴な性格によって断ち切られた。第二冊の『仰臥漫録』には余白が多い。明治三十四年十月から三十五年三月までも途絶える。その後も絶え絶えで、九月三日、死の直前の夜会草の、繊細ながら草花の「真」をつかんだスケッチに至る。
 余白は子規の力が尽きようとしている証でもあるが、そればかりではないとも推察される。時間軸に沿った構成を諦めざるをえなかった子規には、一冊目以上に、写生、日記、句歌、随筆の渾然とした玉手面が夢見られたのではないか、と思われるのである。打ち棄てられた余白にも、それらを溶かし合せてくれるはずだった時間が流れ込んでいる。
 このように『仰臥漫録』を眺めえてしばらくしてから、私はそれに近いものとして、ふと『筆まかせ』を思った。活力にみちたあれと仰臥したままのこれとでは随分と印象がちがうが、一冊きりの媒体に時間を呼び込み、そこに時間を書き留めようとするかたちはよく似ている、と思えた。
 子規は、ジャンルを遍歴した。詩歌の中だけでも俳句、短歌、漢詩、新体詩にわたった。これらは狭義の「形式」の錯綜の問題である。だが、それを可能にした奔流の源として、「原本」という mediumのはたらきの問題がある。「原本」のmedium によって導かれたのが、なによりもまず、自分自身の時間を書き留めようという不埒ともいえそうな筆の動きであった。ひいては、広義の「形式の百出」ということであった。『筆まかせ』もまた、子規の部屋へ入らなければ読めなかった一冊きりの私記であったことの意味は、それが批評の性格を多く負っているがゆえにかえって、探るに値する深みをもっていると思える。

新日本古典文学大系 明治編 第27巻 月報2003